連載「生物多様性と先住民族」
第10回 キノア生命特許事件は薄氷の勝利(その1)
第11回 キノア生命特許事件は薄氷の勝利(その2)
著者: 細川弘明
刊行者: 先住民族の10年市民連絡会
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生物多様性と先住民族(10)
キノア生命特許事件は薄氷の勝利(その1)
反実仮想であるが、筆者がもしアグリビジネスや製薬企業の中堅社員で、プロジェクトを企画・開発する業務を担当させられたとしたら、どのような発想で何に着手するだろうか。
ヒットする商品と世界が必要とする商品は必ずしも一致しないが、両者が一致するような商品を開発できれば、利益と社会貢献(CSR!)の一石二鳥、と虫のよいことを狙うかもしれない。たとえば、食糧不足を救い、かつ栄養面でも優れていて、さらに健康食品としての特徴までも兼ね備えたような栽培種を開発し、その特許を確保できたら!
よし、それでは、部下を使って徹底的にリサーチさせよう。ひとりの部下には、農学や植物学の文献にあたらせ、乾燥地・寒冷地・塩性地など厳しい栽培環境でも一定の収量を保っている作物品種の洗い出しをさせる。アンデス高地、オーストラリア内陸荒野、カラハリ沙漠なんかでフィールドワークをしている人類学者・生態学者の報告なんかも必ず読むのだぞ。
別の部下には、人類学・民族学の論文や報告書を渉猟させて、さまざまな地域の「離乳食」の食材や調理・加工方法を調べさせよう。離乳食には、乳幼児がアレルギー反応をおこしにくい食材が選ばれ、栄養的にも優れたものが工夫されているはずだ。新しい健康食品を開発する素晴らしいヒントが得られるかも。
またひとりの部下には、主要な穀物の栄養分析についてのデータを収集分析させよう。小麦、米、トウモロコシなどの栄養上の弱点をはっきりさせれば、それを補う新作物・新品種の開発戦略が立てられる。
これらの調査や実験をふまえて各分野の専門家に相談し、有望な情報を絞り込んで、現地に人を派遣してサンプルを入手しよう。若くて意気のよい研究者には調査経費や奨学金を提供して、サンプルの分析や交配試験をしてもらおう。現地で栽培されている品種のバリエーションをできるだけ多く入手し、それらを交配させて、特性がどのように増幅できるかを調べ上げ、その情報は生命特許として権利確保しよう。。。
■キノアの交配特許
上に空想で述べたような着想と経緯があったかどうかは定かでないが、結果的にはこれに近いような開発期待が寄せられたのが、キノア【註1】という植物であった。
1980年代以降、欧米の複数の企業や研究機関がアンデス高地原産のこの雑穀に注目し、栄養分析、現地採種、栽培実験、交配試験をおこなってきた。日本でも90年代にはいって民間企業(製糖会社、種苗会社など)や国家機関(食総研、作物研など)で研究が活発になった。
コロラド州立大学の研究者たちは、アンデス各地のキノア Chenopodium quinoa 44品種の育種試験をふまえ、収量を高めた特定の雄性不稔ハイブリッド種を育成した。同大はその生命特許を92年に米国特許庁に申請し、94年に認められた【註2】。それを誰がどう商品化していくかは明らかでなかったが、F1種子の商品化をめざすのと、後述するようなタンパク質分離技術の確立をめざすのと、両様の開発戦略があったものと思われる。
キノアは、アンデス高原のハケ Jaqi 系民族(アイマラ Aymara、ハカル Jaqaru など)とウルチパヤ Uru-Chipaya 系の民族(チパヤ Chipaya など)が紀元前数千年前から栽培しつづけてきたアカザ科アカザ属 Chenopodium の植物(ホウレンソウの仲間)である。乾燥地・寒冷地でも安定した収穫がえられ、土壌塩分の高い土地でも栽培が可能である【註3】。
栄養面では、必須アミノ酸の含有バランスが非常に良いという特徴がある(米よりもはるかに良質の蛋白源となる)。カルシウム、マグネシウム、鉄、カリウムなどミネラル分の含有量も高く、食物繊維にも富む。ビタミンB2は白米の7倍もある。また、動物実験ではキノア外皮を食餌に添加したラットで血中コレステロール濃度を下げる明確な効果が認められた【註4】。
筆者は1978年から80年にかけて青年海外協力隊(JOCV)の派遣によりボリビア共和国で暮らしたが、町でも村でも、キノアの小さな粒々のはいったトウモロコシやチューニョ(ch'uñu 凍結乾燥イモ)のスープをいただいて体を温めるのが楽しみであった。粗挽き粉をお粥や団子にして食べることもある(アイマラの村では葉や茎も食べた)。キノア粥は離乳食でもある。
そのときは知らなかったのだが、キノアは健康食品やアレルギー患者の代替食品としてすでに商品化されつつあり、特にボリビア高地のアイマラ農民が完全有機栽培で生産するサポニン(種子に含まれる毒分)の低い品種群は、北米や欧州で人気を博しつつあったのだ。日本でもバブル期の健康食品ブーム以降、キノア製品は定番商品として定着している【註5】。
■零細農民の勝利か?
さて、コロラド州立大が得た特許の存在に1996年になってから気づいた北米のNGO関係者がボリビアのキノア生産者全国連合 Asociación Nacional de Productores de Quinoa (ANAPQUI)に通報し、ペルーやエクアドルのキノア生産農民(大半が先住民族系の零細農家)も加わって、98年、集中的に抗議運動が展開された。折良く国連総会開催中のニューヨークでANAPQUIの代表が意見表明する機会があり、それが社会的に注目されたこともあって、大学はキノアの生命特許更新を断念する【註6】。
この事例は、バイオパイラシーに対して先住民族零細農民が一致団結して先進国NGOと連携して「勝利した」事例として日本でも紹介され【註7】、その後も内外のNGO資料やインド政府肝いりのTKDL【註8】でも、勝利事例として語り継がれている。
しかし、今回この事例について幾つかの記録を仔細に検討して分かってきたのは、この事件の結末を“先住民族の勝利”と評価するのは必ずしも適切でなく、仮に白星だとしても、まさに薄氷を踏んでの形ばかりの勝利にすぎなかったのではないか、ということだ。
そもそも、大学側が特許更新をしなかったのは、事件が社会的・国際的に注目されたこともさることながら、最大の理由は更新料を負担する予算が組めなかったことである【註6】。より潤沢な資金力をもつ大手企業であれば、あっさり更新されてしまっていたかもしれない。
【以下、第165号 pp.12-13 所収】
生物多様性と先住民族(11)
キノア生命特許事件は薄氷の勝利(その2)
コロラド州立大が1994年に米国特許庁から承認されていたハイブリッド育種実績の特許の保護対象は、種子、植物体、交配手法、栽培技術など育種知財にかかわる生命資源と関連技術のかなり広い範囲に及ぶものであった。もし、この知財権がそのまま有効であれば、アンデス各地のキノア栽培民にとって大きな打撃になっていた可能性がある。
というのも、特許の対象とされたハイブリッド種(それをコロラド州立大の研究者たちは、ボリビアでの最初の採種地の村名にちなんで「アペラワ品種」Apelawa/Apelahua varietyと命名していた)は、実のところアペラワ村で栽培されていた品種そのものではなく、エクアドル、ペルー、ボリビア、チリなどで栽培されていた地方品種(バナキュラー変異種)を多数交配させて育種したものであり、理論的にはこれらすべての村のキノア品種がこの生命特許の規制対象とみなされうる。(もちろん、そのような知財解釈そのものが当然、熾烈な議論を招くのであるが、少なくともアンデスから北米や欧州への輸出の妨げとなる恐れはあった。)
前号(本誌164号)で紹介したANAPQUIの1998年の「勝利」はこうした生命特許の波及的破壊力に対して何ら歯止めをかけることができた訳ではなかった。このケースでは、大学側が主にコスト面での判断から特許の更新をしなかったので、結果的に先住民族農民側の抗議が実を結んだような形で決着しただけである。生命特許の是非をめぐる論議はなんら決着していないし、生命特許の法的波及力についての批判的分析が十分なされた訳でもなかった。
■続々とキノア関連特許
その後、コロラド州立大は、キノア種子からのタンパク質分離技術について2004年に特許申請し、2009年には取得している【註9】。同じく2009年、フランスの化粧品メーカーがキノア種子に含まれる脂肪酸の分離濃縮技術について特許を世界知的所有権機構 World Intellectual Property Organization(WIPO)に申請したとの報道があった【註10】。これらの特許がただちに伝統的なキノア生産者に影響するわけではないが、ペルーの代表的なキノア研究者ムヒカ=サンチェス(Ángel Mújica Sánchez)は先進国で登録された特許が途上国の零細農民をも拘束するという国際特許の仕組みに懸念を表明している(註10の記事)。
チリのカトリック大学・生化学工学部の研究者たちは、キノア種子の外皮から抽出した苦味成分サポニンを用いて殺虫剤(ナメクジ・カタツムリ駆除剤など)を製造する技術を開発し、これをまず米国で特許取得し、さらにWIPOを通じて国際特許化の手続きをとった【註11】。サポニンは栄養阻害成分なので、前号で指摘したようにサポニン含有度の低いキノア品種が欧州市場では歓迎されているのだが、このようにサポニン自体を資源として活用しようとする開発動向も顕著である。「毒にも薬にもなる」という言葉をまさに地でいくものと言える。
サポニンを始めとするキノア外皮成分の生理活性については、前号(註4)にあげた論文でもコレステロール低下作用が検証されており、薬剤や健康食品としての商品化にむけて研究開発と特許取得競争が繰り広げられていることが容易に想像される【註12】。
キノアひとつとって見ても、このような事例を列挙していくだけで何頁も続けられるほどの有様である。そのことが何を意味するのかといえば、
(1)個々の生命特許に対して先住民族やNGOがそのつど反対運動を展開しても埒があかず、そもそも件数が多すぎて到底対応しきれる筈もないということ;
(2)個々の生命特許がどのような形や程度において先住民族の利害になるのか、研究開発段階においては必ずしも明らかでない(だが、特許は早い段階で申請され取得されることが多い──どのような商品に展開していくのか開発者自身にも分からないケースも少なくない)、ということが、まず明らかである。そして、より根本的なところで、
(3)何をもって問題解決とすべきか、というビジョンが先住民族側(あるいは支援するNGOの側でも)必ずしも定まっていない、という側面も垣間見えてくるように思われる。
■利益配分の保障で事態は解決されない
生物多様性条約(CBD)の運用をめぐる議論では、分配の公正さ・公平さが大きな論点になっている。もしそれが問題の全てであれば、生物資源・遺伝資源が生命特許と商品化を通じて生み出す経済的利益を伝統的栽培者・採集者に還元分配する(ないしは利益の損失を補償する)ルール作りで対処するのが現実的・妥協的な解決策であろう。きたる名古屋会議(COP10/MOP5)においてABS(アクセスと利益配分)が最大の議題のひとつとなっているのは、それ故である。
だが、ここで見落とされがちなことが2つある。
第一は、利益配分(benefit sharing)の前提がアクセス(access)の容認である、ということ。特定の生命資源・遺伝資源へのアクセスを拒絶する権利は、議論のテーブルから外されてしまっている。先住民族の一部は、その権利を留保すべく主張を展開しているものの、資源開発者=先進国側の産学セクターは、そのような主張を一顧だにしないであろう。
第二は、資源提供者(多くの場合、途上国側)とりわけ特定の動植物の伝統的利用者(しばしば先住民族やローカルな共同体)の利益や損失について、既存の知見に即した考え方しか採用されていない、という点である。
キノアの場合でいえば、ハイブリッド種の開発が進み、それが生産現場に投入された場合、既存の地域品種を駆逐する可能性がある(必ず駆逐するとは断言できないものの、寡占化が非常に早い速度で進みうることは経験上明らかであると言ってよいだろう)。そのことが、生産現場での経済的な構図や、あるいは自然環境との関わり方において、どのようなインパクトを持ちうるか(もちろん、地域ごとの民族関係や環境条件によって影響の質と量は異なってくる)。それを事前評価する基準や手法は、ABS論議のなかで看過されている【註13】。
生物多様性の観点からは、利益が分配されない不公平もさることながら、人為的改変種が生態系に対して、あるいは地域固有種の安定した生息・栽培環境に対してもたらすリスクのほうがより深刻な問題である。利益分配ルールをめぐるテクニカルな交渉の隘路のなかで、そのことを忘れてしまってはならない。
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【註1】キヌアとも表記される。アイマラ語のkiñwa(キニュワ)に由来するスペイン語名quinoaで記載されることが多い。ケチュア語諸方言ではkiwña(キーウニャ)、kiwiña(キウィーニャ)などの音位転換形も聞かれる。
【註2】米国特許5304718 (http://j.mp/aKpqLa)
【註3】山本紀夫2004「キヌア 知られざるアンデスの雑穀」『月刊みんぱく』9月号pp.20-21.なお、同じアカザ属の栽培種でケチュア語でkañawi(カニャーウィ)と呼ばれる作物も、その耐寒性・耐霜性が注目されている。
【註4】高尾哲也1999「キノアの成分と生理活性」『食の科学』253号pp.52-58.
【註6】Rural Advancement Foundation International (RAFI), 1998, Quinoa patent dropped: Andean farmers defeat U.S. university. RAFI Genotype, May 22, 1998.(RAFIは現在「ETC Group」という団体名で活動を継続している。http://www.etcgroup.org )
【註7】月刊『オルタ』1998年7月号p.26に掲載の短信「ペルー 作物への特許取り消しに成功した農民」(※なお、『オルタ』の記事でカナダに本部のある旧RAFIを「デンマークの市民団体」としているのは間違いで、RAFIと連携してアンデス・キノア農民を支援していたデンマークのIBISとの混同)。
【註9】米国特許番号7563473
【註10】ペルー紙 La República 2009年2月6日記事 http://bit.ly/bcXbmd
【註11】WIPOの国際出願番号 PCT/US2008/ 061577(2008年4月出願)。研究資金は米国の製薬会社から出ていたのではないかと推測されるが、確認できていない。
【註12】現に、註4の論文を執筆した研究者が所属する食品企業では既にキノアが商品化され(http://www.dmsugar.co.jp/products/p_quinua)、開発段階でのさまざまな知見、技術、成分組成などが特許取得されている。
【註13】キノアの場合、前号で説明したような理由で、原産地アンデス以外の農業困難地域(寒冷地、乾燥地、塩性地など)に導入されていく可能性も小さくない。そのことが対象地の農業環境や住民にどのようなインパクトをもたらすか、これも事前評価が欠かせないだろう。ただ、これについては、従来の環境影響評価(EIA)と社会影響評価(SIA)の土俵で対処することが一応は可能。
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